緩は俯き加減で箱を店員に渡した。会計を済ませる。綺麗な紙袋に入れてもらい、受け取るとすばやく手に持っていた大きめのトートバッグへ隠した。
隠したという表現が正しいだろう。
誰にも見られてはならない。このようにバレンタインチョコを買い求めている姿などを唐渓の同級生に目撃されれば、どのような噂が立つかわからない。あれこれと憶測が飛び、やがては相手が山脇瑠駆真であるという事実が判明してしまうかもしれない。
絶対に知られてはならない。
廿楽華恩という後ろ盾を失って以降、緩に非好意的な態度を示す一部の生徒たち。彼女らに弱みを握られてはならない。そういう理由もある。だがそれだけではない。
「これは、恋を成就させるための手段などではありませんわ」
エスカレーターもエレベーターも避けて階段で降りる。
「これは山脇先輩のため」
大迫美鶴という下賤な輩に恋をしてしまった王子様の目を覚まさせるための儀式。それは美しく、神聖でなければならない。周囲の邪推などに汚されてしまっては届く想いも届かない。
愛されたいなどという疾しい欲を持たずに純粋に想えば、きっと願いは叶うはず。
先輩は二度も私を助けてくれた。今度は私が先輩を助ける番。
トリュフが口の中で甘く溶けると同時、きっと先輩も自分の思い込みから解かれるはず。先輩が本気で大迫美鶴を想っているはずなどない。きっとそう思い込んでいるだけだ。先輩、早く目覚めて。
本当は大迫美鶴へ向って、山脇瑠駆真をこれ以上弄ぶのは辞めろと詰め寄りたい。だが、緩にはできない。
彼女の恋心と、恋愛ゲームが好きという二つの極秘事項を彼女に握られてしまっているのだ。下手に動けばいつこの秘密を暴露されるかわからない。
霞流邸での己の醜態。今でも、思い出すたびに悔しさが湧き上がる。
だいたい、どうして大迫美鶴が幸田さんと知り合いなのよ? 見たところ、大迫美鶴は特にゲームやコスプレに興味を持っているようではないようだけれど。
階段の途中で足を止める。
そうよ、どうしてあの二人が?
一度止めた足を再び動かす。
深く考える必要は無いのかもしれない。大迫美鶴は、火事で住む家を失った時にいろいろ世話になったはずだ。その時の縁だと考えれば不自然は無い。
霞流家とは、古びた駅舎を通して知り合ったはず。
廿楽華恩の小間使いとして美鶴と瑠駆真の周辺を探っていたのだ。このくらいの情報は緩も得ている。
霞流という名前が出た時、廿楽は見るからに動揺した。周囲に侍る女子生徒たちからも驚きの声があがった。この辺りの富豪やら上流階級の立場にある人間なら、誰もが知っている名前のようだ。緩は、知らない事を咄嗟に隠した。
なぜ大迫美鶴と霞流の家に繋がりがあるのか? 駅舎の件や、火事の件だけが原因か?
廿楽も他の生徒も不審に思った。本来だったら、華恩の号令一つで霞流家を調べる事になっただろう。だが、華恩の権力を持ってしても、霞流家に深入りする事はできないとのことだった。
霞流家を一代で富豪へ伸し上げた人物はすでに他界し、息子は富丘で隠居暮らし。その息子は頑固で気難しく、人脈を築くのが難しいらしい。息子が二人か三人いるらしく、唐渓に通っていた者もいたらしいが、今はすでに卒業している。
なにより、当時、華恩の瑠駆真への恋心は知られてはならない秘密事項であった。あまり親しくもない霞流家へ強引に調べの手を伸ばして事がバレるのも避けたかったのだ。
先輩でも手を出すことの出来なかった存在。
その屋敷に出入りできたという事実が、緩の胸を熱くさせる。
ひょっとしてこれは、唐渓での私の立場を好転させる良い材料になるのでは?
そこで思わず息を吸う。
それは、同じように、大迫美鶴にとっても良い材料になるという事なのではないだろうか? だが、大迫美鶴が霞流家との繋がりを校内で声高に言いふらしているというような話は聞かない。
わ、私だって、そのようなみっともない行動、取ったりしませんわ。
なぜだか対抗意識が沸く。
それになにより、幸田さんとの関係がバレてしまえば、私の趣味趣向までもが露見してしまう。
グッと拳を握り締める。
霞流家との関係を、校内で知られるワケにはいかない。
別に、別に構いませんわ。霞流家を新たな後ろ盾にしようなどとは思ってもいません。そんなモノが無くとも、私には山脇先輩がいますもの。
途端、胸の内が焦がれる。
大迫美鶴、彼女さえいなければ。まったく、どうして彼女のような下賤な人間が霞流家のような上流階級との間に繋がりを持ってしまったのかしら? ひょっとして、彼女は最初っから霞流家へ接近するつもりで駅舎の管理を引き受けたのでは?
可能性はあるわ。ひょっとしたら上流階級との繋がりが欲しくて唐渓へ入学したのかもしれないし。
なによ、学校では金持ちなどくだらないというような態度で生活しているクセに、その裏にはしっかりと下心を潜ませているというワケ? 冗談じゃないわ。くだらないにも程がある。
と、するならば、彼女の行動には常に裏があると考えなければならないのかもしれない。
緩はもう一度足を止める。
山脇先輩の事も、そういう目的で? だとしたら危険だわ。山脇先輩が、金の亡者の餌食になってしまう。
一刻も早くお助けしなければっ!
まるで魔女に掛けられた魔法を解くかのよう。
私、絶対に先輩を目覚めさせてみせます。先輩が自分の思い込みに気づくまで、私、頑張ります。
小さく拳を握り、一階下の書籍売り場にゆっくりと出て行く。そうして、あたかも書籍を探し歩いているかのように、辺りの文庫本へ視線を移した。ワザと人の多い棚を選ぶ。できるだけ人混みに紛れる。ゆっくりと、だが常に移動し、一人でも多くの人間に、自分が書籍売り場に居るという事実を知らしめようと試みる。その耳に、ひそひそと囁く小声が聞こえてくる。
「やま…る……せんぱい」
え? 瑠駆真先輩?
思わず立ち止まった。聞こえてくるのは隣の棚から。
「本当?」
「絶対に間違いありませんわ」
小声だが、何かしら力のこもった声。
「瑠駆真先輩が花嫁候補を探していらっしゃるのは間違いないわ」
緩は瞠目した。
「瑠駆真先輩の付き人らしき黒人の女性を、今月に入ってから頻繁に見かけるようになったって」
「あぁ、それなら私も一度見かけましたわ。正門から少し離れたところに車を止めて、瑠駆真様を待っているような様子だったとかって」
「でも瑠駆真先輩は彼女が学校にやってくるのをお嫌いになっている様子」
「身分が知れてしまった以上、今更身の上の露見を案じて敬遠されているというワケではありませんでしょうし」
「お嫌いな使用人ならさっさと解雇してしまえばよろしいのに」
「きっと、お優しいからですわ」
ホウッと色を含んだ吐息は、次の言葉に掻き消される。
「瑠駆真様をお迎えにあがりながら、なにやら唐渓の生徒を値踏みしているような視線も感じると聞きましたわ」
「これはやっぱり」
そこで会話は一度途切れる。
緩の心臓が激しく動悸する。
「あのような身分の御方ならおかしくもないお話ですわ」
山脇先輩の、花嫁。
急速に唇が乾いていく。狭い棚と棚の間で呆然と立ち竦む。背後から押され、慌てて横に避け、手近な本を手に取った。だがそれが何の本であるのか、タイトルさえも目には入らなかった。
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